SABUROMARU  三郎丸蒸留所  若鶴酒造(GRNグループ) 富山

出来たばかりの蒸留所が、燃えた。ウイスキーも、消えた。

富山の名酒"若鶴"が生まれたのは文久2年(1862年)のこと。森鴎外や新渡戸稲造の生まれた年でもある。次々と寄せては返す時代の大波に揉まれながらも、事業は拡大していった。大戦後の米不足の折、清酒に加えて洋酒の製造にも着手する事になる。1952年7月、遂にウイスキーとポートワインの生産が始まった。

 戦後復興の勢いが付いたかに見えた翌53年5月11日23時50分、蒸留室から出火し、工場、研究室、倉庫など6棟約635坪を全焼する惨事となった。途方に暮れている若鶴酒造の社員の元に集結したのは地元の農家の方々とその家族だった。5月の農繁期にもかかわらず、毎日数百名が瓦礫の片付けなどを自主的に続けた。その結果、たった半年後には蒸留所の再建を果たした。

 ウイスキーの銘柄は"サンシャイン"。命名者の片山忠雄氏は、敗戦後2年間の抑留生活で、イギリス兵から聞いたこの言葉に、戦後復興と平和への思いを込めたのだと言う。

 時は流れ2000年代初頭、焼酎ブームの際に、蒸留器を焼酎製造にシフトしたが、それ以外の年は、清酒製造のシーズンオフの期間に、ずっとウイスキーを作り続けてきたのだった。しかしその多くは地ウイスキー用に使用されていた。2010年代に始まる本格クラフトウイスキー時代の日の出に照らされ、砺波市三郎丸の地に、新たな"若い鶴"が舞い降りて来ることになる。

 

少年は満面の笑みを浮かべて言った。 "僕の将来の夢は、発明家になることです"

後に若鶴酒造5代目としてクラフトウイスキーを作ることになる稲垣少年は、富山ではなく、長野県松本市に1987年に生を受けた。男3人兄弟の長男で、貴彦と名付けられた。父は今や数多くの企業グループの頂点に立ち、北陸経済界で知らない人はいない偉大なる存在だ。一方で、稲垣父子は無類の釣好きでもあった。

 そんな行動的な父の姿を観て育った稲垣少年の夢は、「発明家になること」だった。幼い頃から様々なモノやコトの成り立ちに興味を持ち、一度興味を抱くと没入し、徹底的に対象物を研究する子供だった。

 高校は理数科に進み、大阪大学経済学部経営経済学科に入学することとなる。何となく阪大を目指したわけではない。そこには、高校生らしからぬ貴彦氏のビジョンがあった。

 曰く、「大阪大学で学んだことは経済経営学科という名の通り、経済と経営の両面で、マクロ経済から組織論、ブランディング等多岐に渡ります。文系(情緒)と理系(理論)のはざまにあるのが経営経済学科であり、自分が大阪大学に行った理由はそこにあります。」

 卒業後ヒューレットパッカード社(東京)に勤務し、2015年北陸コカコーラ入社、後に若鶴酒造取締役に就任する。発明家を夢見た稲垣少年が、ウイスキー作りというプラットホームで、その能力と発想を遺憾なく発揮することになるとは、まだ誰も知る由もなかった。本人でさえも、、、。

一から自分の力でやってみろ

北陸コカコーラ、そしてGRN株式会社にも籍を置きつつ、若鶴酒造の経営資源の分析、改善を任された貴彦氏は、老朽化した蔵の奥に眠っていた1960年代のウイスキーの樽を見つけた。周りの誰もが、そんなに古いもの飲めるわけがないと思いつつ、蔵の奥に放置されてきた原酒たちだ。恐る恐る香りを嗅ぎ、口に含んだ。

 「こ、これは、、。」興奮して居ても立っても居られなくなった。タイムトンネルを抜けて、曾祖父の稲垣彦太郎翁(故人)が蘇ってきたかの如く感じた。

 「このレガシーを後世に繋ぐ為に自分はここにいる。」そして、多くの人に見学してもらえる本格的なウイスキーの蒸留所を目指す事が脳裏を過った。

 世はまさにNHK朝ドラ"マッサン"の影響で、空前のウイスキーブームとなっていた。「これなら父さんも認めてくれるはずだ!」程なく父に打ち明け、構想をぶつけた。若鶴酒造CEOでもある父は、眼光鋭く息子を眺め、こう言った。

 「やるのなら、お前が一から自分の力でやってみろ!」

貴彦氏は早速改修プロジェクトの構想を綿密に書き上げていった。初期投資費用1億円の内、当時注目を浴び始めたばかりのクラウドファンディングで2500万円を募ることを発案し、いよいよ応募がスタートした。想いも寄らぬ反響があり、富山に蒸留所をという夢に賛同した同郷の人々を始め、多くのウイスキー愛好家が支援を申し出たのだ。そしてあっと言う間に目標の2500万円を超え、遂には3825万円もの絶大な支援金を集めることとなった。

 その直後に開催されたウイスキーフェスティバル東京にブースを出すと、支援した愛好家達の多くが立ち寄り、貴彦氏への期待を膨らませた。

 貴彦氏は身震いした。「これはたいへんな事になってきたかも、、、。」同時に、必ず成功させてやるぞ、とそのDNAに火が点いた瞬間でもあった。

目指したは、ナナヨンARDBEG

やるべき課題は山積している。しかし、理数系出身の貴彦氏は、プロジェクトの細部まで精密な絵を描き始めた。ウイスキーと言う神秘の液体も、根本から勉強し直すことにした。

 何から何まで先ずは自分がやらなければならない。原料の調達から、粉砕、糖化、醗酵、蒸留、貯蔵、瓶詰。そして、、、ブレンドも。その為には、出来る限り多くのウイスキーをテイスティングしなくてはいけない。度々バーに通っては、名立たるオールドボトルの銘品も口にした。

 やがて、衝撃的な出会いが訪れる。そう、ARDBEG伝説のヴィンテージイヤー1974年だ。初めてそれを口にした時、鳥肌が立ったと言う。

 「これだ!俺はこれがしたいんだ!」昔ながらのアイラモルトのあの味だ。

 かつて若鶴酒造が作ってきたウイスキーは、スモーキーな麦芽のみを使用してきた。クセが強過ぎて受け入れられなかった事もあった。それでも若鶴の伝統は守っていきたい。貴彦氏は躊躇うことなく、ヘビリーピーテド麦芽のみを使用したウイスキー作りを貫く事に、改めて確信を持った。そして、いつかアードベックナナヨンみたいな酒を作りたいという目標を胸に秘めたのだった。

 クラウドファンディングで支援した下さった方々の想いを背負い、廃屋のようだった建物の改修も始まり、長年使用してきたポットスチルも、一部を銅製のものに取り換え、レストアを進めることになる。北陸で唯一のウイスキー蒸留所として、多くの来場者に愉しんでもらえるよう、歴史資料室や、ウイスキー作りを映像で学ぶことができる、プロジェクションマッピングならぬ室(ムロ)ジェクションマッピングも自ら部品を作りこみ、プログラムも組んで制作した。手の込んだ出来栄えに多くの見学者は驚き、感動を呼んでいる。

運命的な出会いは、いつもBARだった。

元々若鶴酒造にあった古い設備を改修し製造を進めるうちに、老朽化ゆえ、様々なトラブルが発生したり、思い通りの成果(数値目標の達成)を得られないことがあった。マッシュタンも然り。何せ50年も前のものだ。

 そんな最中運命的な出会いに遭遇する。2017年5月、貴彦氏は石川県金沢市の名店BARマクリハニッシュにいた。そこで、経験豊富なマスターに三郎丸蒸留所の現状について報告しつつ、ウイスキーを舌に転がしていた。その頃は特に古い糖化槽(マッシュタン)の問題に頭を悩ませていた。するとマスターが視線をカウンターの端の男性に向けた。

 「あの方、三宅康史さんですけど、、、知りません?あの三宅製作所の三宅さんですよ。何なら相談してみたらどうです?」なんと三宅氏は、ドイツでのビール製造の視察と修行を終えて帰国したばかりで、金沢まで骨休めに来ていたところだった。話を始めると、昭和62年生まれの同い年であることもわかり、一気に距離が縮まった。貴彦氏は悩んでいた諸問題を三宅氏にぶつけてみた。丁寧に訊き終えた三宅氏は言った。

 「それ、ウチで出来ると想いますよ。」

 新しくマッシュタンを入れるにも、改修を終えたばかりだった木造蒸留蔵の狭く、天井の低い場所にどうやって移動させ、設置するのか?

数多の蒸溜機器製造と設営を行ってきた三宅製作所には、多種多様の現場での問題解決のノウハウの蓄積があった。そして、何と蒸溜所の屋根に小さな穴を空け、UFOキャッチャーのごとく、屋外にクレーンを配備して、遠隔操作で大きなマッシュタンを填め込んだのだった。さらに貴彦氏は、銅板で胴周りをラッピングすることを発案し、モメンタムファクトリー折井高岡銅器酸化着色技術を活かして、見事なコバルトブルー(斑紋ガス青銅色)とブラウンマーブル(斑紋孔雀色)の二色の作品に仕上げた。 

微生物のコントロールこそ醗酵の要

2016年のクラフト第一世代の他の蒸溜所と三郎丸の大きな違いは、前述の通り、元々あった製造機器を利用しつつ、問題解決する為に貴彦氏が専門家と協議し、スクラップ&ビルドを重ね、蒸留所を進化させていく事にある。

 次に着手したのは醗酵槽だ。愛好家も強く抱く、木製醗酵槽のクラフトっぽさ(手造り感)も手伝い、各地の蒸溜所が木槽の導入を進めているが、ここにも貴彦氏の合理主義的な仮説が盛り込まれた。

 貴彦氏は醗酵工程すべてを木槽に変えるのではなく、醗酵後期の4日目以降の乳酸醗酵時のみ、木槽に移せばよいのではと考えた。そして2020年4月、美しいダグラスファー材の木桶白州蒸溜所、遊佐蒸溜所マルス信州蒸溜所でも実績のある日本木製木管により組まれた。マッシュタン同様、限られたスペースに合うよう緻密に設計された縦長の木桶だ。木桶はステンレスと比べ保温性に優れ、高温を好む微生物である乳酸菌の繁殖を活発にさせる。それがウイスキーに独特の風味をもたらすのだ。また、酵母についても、富山県立大学工学部の准教授(当時)だった尾仲宏康准氏(現東大特任教授)が2010年に高岡産の六条大麦から発見した「とやま産まれの酵母」を初めてウイスキーの醗酵に使用するなど、県立大との共同研究も進めている。この酵母は醗酵する力が強く、フルーティな香りに仕上がる事が認められている。

ステンレスから銅、そして錫(スズ)へ

ウイスキーブームを背景に、日本全国各地にクラフト蒸留所が出現しているが、その中には、若鶴酒造のように日本酒や焼酎の蔵元も多く含まれている。それらの一部の酒蔵は焼酎蒸留用のステンレス製蒸留器を転用している。しかし、ウイスキー業界では、銅製のポットスチルを使うのが"常識"である

 そんな不動の常識にまたも貴彦氏は独自の発想で切り込んでいった。写真にあるように、ステンレス製、鋳造製(銅錫合金)、銅製の3種のポットスチルのミニチュア蒸留器を作成し、富山県立大学の研究室で実験を行った。出来上がったサンプルは酒類総合研究所に送られ、専門家の官能検査を受けることになった。

 その結果、銅錫合金は硫黄臭や肉臭などのオフフレーバーを低減させ、花の香などウイスキーに望まれる香気成分の生成に関しても、純銅と同等以上の効果が認められることとなった。また錫は古来より酒質がまろやかになることが知られている。貴彦氏の仮説は見事なまでにポジティブな結果を得られた。

下町ロケット 梵鐘ポットスチルZEMONの誕生

貴彦氏はなぜ銅錫合金での蒸溜実験をしたのか?それは、後に特許も取得する鋳物製ポットスチル"ZEMON"を作る為の伏線だった。驚くなかれ、梵鐘製造シェア全国70%の高岡の名門企業老子製作所が、その伝統技術を駆使し、ポットスチルの鋳造を引き受けたのだった。貴彦氏はあちこちのポットスチルを観るうちに、それが梵鐘のように見えてきたと言うのだ。そして2019年5月、ウソのような話は本当の話となり、業界をあっと言わせた。日本人の心に響く"鐘ポットスチル"の誕生だ。

 合金の比率は、銅90%、錫8%、亜鉛2%。これを鋳型に鋳込む。その鋳型は砂で作るため、出来上がったスチルの内面は凸凹でザラザラ。その為、通常の銅製ポットスチルに比べ、表面積が150%となった。すなわち蒸留時にもろみがポットスチルに接する面積が1.5倍になり、その分銅と錫の影響がより得られることとなる

 一方でパーツを5部に分ける事により、補修や取り換え時にそのパーツだけを取り外すことが可能となる。また、ラインアームの角度など、パーツの形状を変えて新設する事もできるのだ。さらに鋳造製のため、寺の梵鐘の如く高寿命で、最低で10mm、最高で40mmの厚みでの製作が実現した。加えて、一度型を作れば、短納期で量産も可能となる。世界中のクラフト蒸留所設立希望者が、三郎丸蒸留所を訪れる事となり、やがて三宅製作所と競って、ジャパニーズポットスチルの輸出が始まるかもしれない。

富山のミズナラで、富山の職人が樽を作る。

戦時中、ウイスキー熟成樽の材料不足の為、寿屋(現Beam Suntory社)山崎蒸溜所で、国産材での代替えが試行錯誤された。その中でも水漏れが激しく使い物にならないと思われた水楢。加えて新樽の多くの場合、木香が強すぎるのが問題だった。しかし時を経てセレンディピティが起きる。補修を続けた2空き、3空きの樽の原酒から、伽羅や白檀のような香木の独特な香りが漂っている事が発見されたのだ。

 今や、ミズナラ樽作りは、本家のサントリー(鴻池運輸樽工場)の他、有明産業(洋樽メーカー)、秩父蒸溜所内クーパレッジ、厚岸蒸溜所(製樽は委託)でも行われている。そして、三郎丸蒸留所に於いてもそのプロジェクトは進行していた。富山県南砺市の山林から、同市島田木材(シマモク)高度な熟達技術により急斜面からミズナラを切り出し、前川三四郎の技を受け継ぐ木工彫刻師の町、南砺市井波町で製材乾燥した後、熟練大工の山崎工務店山崎氏が樽を作っているのだ。あまり対比されることは無かったが、ジャパニーズアイラモルトを標榜する厚岸蒸溜所と同じく、ヘヴィリーピーテッドの富山産ミズナラ樽熟成モルトが密かに眠りに就いていた。

そうだ富山、行こう。

笑顔を絶やさず話し続けるこの青年を、親しみを込めてガッキー君と呼ぶ事にしよう。富山県の伝統産業に目を向け、その技術をウイスキー作りに投影し、未来へと繋げようとしている。熟練職人の一癖も二癖もある男達に可愛がられる魅力を持ち、その職人達を唸らせる頭脳と情熱を持つ。近い将来、Made in TOYAMAのSABUROMARU WHISKYが世界中の愛好家を引き付けるようになるまでに、幾つの"発明"を重ねていくのだろうか。それは単にディスティラーというだけでなく、イノベーターとして"TAKAHIKO INAGAKI"の名を歴史に残す事になるだろう。名実共に、天才発明家"GAKKY-KUN"の誕生だ。

 まさに世はコロナ禍で、生活防衛や風評に怯える日々が続き、出張や旅行がまるで不良行為とまで見做される病んだ状況だ。しかし、感染対策をしっかりと取っての移動なら少しずつ始めてもよいのではないだろうか?三郎丸蒸留所は、一般見学を再開している数少ない蒸留所だ。展示室の資料なども非常に興味深い。そして何より、GAKKY-KUNの発明の数々を直に確かめに行ってはいかがだろうか?きときとの寿司と旨い酒もある。寒ブリに舌鼓を打つのも富山ならではの贅沢だ。

 北陸新幹線も開通したことだし、"そうだ富山、行こう。"  運が良ければ、天才GAKKY-KUNに会えるかもしれない。

 

(2020年9月寄稿 CLAUDE WHISKY 井上祐伺)